京都取材旅行始末・1(天河)

タイトルの通り、二泊三日のスケジュールで京都へ取材に行ってきました。
万年赤貧の天河ですが、取材であれば話は別。
お金をかけることがイコール良作に繋がるとは限りませんが、
それでも投じるのに見合った史料が手に入るのなら、
お金に糸目はつけません。今が、「ここぞと言うとき」!
一点豪華主義の人生です。だって、お金がないんだから(笑)!


取材先へのアポイントなど一ヶ月前後を準備に費やして、
満を持しての京都取材!
駅前に到着したのは早朝六時前後。
その足で宿所に荷物を預け(正式なチェックインは午後からでしたので)、
最寄りの喫茶店(結局、三日間ずっと拠点となりました)でまずは径路設定ね。
ガイドマップの類は急いで購入するよりも現地のほうが良いものが手に入ると
会社の同僚からアドバイスを頂戴していたので、
それに従って地図等は到着後に買い求めました。
茶店で頼んだのは、黒蜜抹茶ラテ。やっぱり京都だし、まずは抹茶かな、と。
今、振り返ってみると抹茶関係の飲み物ばっか飲んでた気がする(笑)。


まずは足利義輝松永久秀に討たれた“最初の”二条御所・武衛陣跡へ。
三日間に亘る取材の第一歩は、どうしても足利義輝が没した場所から
始めたかったのですよ。
なにしろ現在構想中の時代小説は永禄の変がプロローグに当たる部分。
しかも、義輝公は全編に渡って影響を与える最大のキーパーソン、
もっと言えば裏の主人公のような存在なので、
ご挨拶だけは絶対に欠かせません。


ええ、そうですよ! 今回の取材旅行はトロイメライでなくて、
その次に挑戦する(予定)作品の為のものなのです。
ふははは、かかったな! トロイメライのブログではあるが、
トロイメライのことばかり書くとは言うておらんぞえ!
そして、よくよく振り返ってみたら、トロイメライ以外の話題のほうが
このブログは多かったと言う。


気を取り直して、武衛陣跡。
ミッション系女学院の敷地にぽつねんと慰霊碑が建っているのみで、
かつての旧斯波邸(これを武衛陣と言いました)の面影は
どこにも見つかりませんでした…が、歴史上で最も好きな人物が
没した場所だけに、慰霊碑と対面したときに震えが来ました。
これはあれだ、細川家の至宝展で南北朝時代の錦旗と対面したときと
全く同じ震え。胸も高鳴ります。
烏滸がましいのは重々承知していますが、剣豪将軍の雷名を
貶めたりしないよう全力を傾けますと義輝公に
ご挨拶をさせていただきました。
…ただ、記念碑の場所が女学院の駐輪場脇だった為に
人目を気にしながら合掌しなきゃならなかったのが、
ちょっとだけせつなかったですけど。
だって変な誤解を受けたら、一発で通報だもの!
現代の新選組(※京都府警)出動よ!?


武衛陣は京都御苑から程近く、義輝公に挨拶を済ませたその足で
御苑すなわち“御所”にも行って参りました。
自他共に認める幕末ファンの天河、もちろん入場は蛤御門からです。
意外だったのは、蛤御門はいわゆる“大手門”ではなく、
“搦め手”だったこと。現地に行って初めて知りました。
禁門の変の折、長州軍は正々堂々と正面突破を図ったと思っていたので、
搦め手から攻め入ったのは、意外だったと同時に
成る程と合点が行くものでした。
乾坤一擲の挙兵に全ての命運を賭けていたのだと言う長州軍の
悲壮な覚悟がそこからも伝わるじゃないですか。
なりふり構っていられない状況に陥った来島隊の決死の突貫を
蛤御門と、そこから覗ける御所へ感じました。


トロイメライの次作と目して取材を進めている時代小説。
主な舞台は室町末期から江戸初期なのですが、
同時代の花形とも言える戦国武将のみならず朝廷サイドの人物も
相当数が登場する予定になっていまして。
彼らが生活していた御所の内部は是非ともこの目で
確かめておきたかったのです。
現在では公園として整地されていますし、
当時の面影を汲み取るのは難しいものがありますが、
禁裏を始め苑内の建物の配置や当時のままを留めているものが多く、
そこから様々なイメージを膨らませていきました。
ちょっと時代を隔てますけれども、御所の広大さを見るに、
将士を展開するにはやや手狭ではあるけれども、
突入してきた長州軍と幕府軍が遭遇しても十分に戦えるな、とか。
緑地や路地を見ながら、当時の公卿も立ち話や散歩をしたのかな、
密談を交わしたのかも知れないな、とか。
いわゆる猪熊事件によって朝廷の面目は丸つぶれになるのですが、
例えば、鬱蒼と茂った林の中でコトが行われていたんじゃ…などと
ハコ書きに組み込んである事件を中心に色々なシチュエーションを
考えていました。


京都御苑では、遷都以来、“公家町”として栄えていた御所周辺が
一気に寂れたと言う史料も目にしてきました。
“公家町”と言う耳慣れない言葉が印象的。つまりそれは遷都以前は
御所のお膝元に相応しい華やかな街並みだったと言うわけで。
この史料を読んでまたまた想像が膨らみました。
歴史家の方には当たり前の常識かも知れませんが、
僕のように学の足りない人間は知識や情報を足で稼ぐしかありません。
そう言った意味では、今出川と言う通りが京都には幾つもあるんだと
判明したことは、僕にとって大きな収穫。
僕が読んだ史料には吉岡道場の所在地が“今出川”か“洛北”のどちらかで
記されていて、どちらが正確なのか把握できずにいたんです。
なるほど、洛北の今出川通り沿いなんだな、と。
物語前半は京都周辺が主な舞台になるので、京都の土地勘を養うのは
必要不可欠でした。
「○○から△△まで徒歩でこれくらいかな?」とか、
距離感のようなものが少しでも掴めれば、またイメージが膨らみます。


御苑を満喫した僕が次に向かうのは、北野天満宮
中学時代の修学旅行以来、十数年ぶりの訪問(続きます)。