美と知の探究(天河)

SF小説書きながら、時代小説の為の資料を読み込むと言う、いろいろしっちゃかめっちゃかな今日この頃。
皆さんはどうお過ごしでしょうか。僕は前述の通り、てんてこ舞いです。てんてこてんてこ!
しょっぱなからアレなとっかかりですみません(汗)。


時代小説の取材と言うことで、このブログでも度々話題に挙げていました
「細川家の至宝展」に行って参りました。
歴史研究の権威であらせられる激極のオッサンのお父上も同展へ出かけていたらしく、
「歴史家と同じ着眼点ってなにげにすごくね?」と一人悦に入ったりして(笑)。


まぁ、実際は本気の取材なのでアホみらいに悦に入っている場合でなくて、
都合四時間半、国立美術館内に入り浸っていました。
会館とほぼ同時に入ったのに退出するときには昼過ぎてたしな。
なにしろ細川家に秘蔵される三百点以上の美術品や歴史的資料が展示されているのですから、
逆に四時間で済んだことが奇跡に思えます。
しかも、こちらは単に美術鑑賞に来ているのでなく、
歴史的資料等から細川家の深淵を学ぶ為の取材が目的。
ノートを片手に必要な事項をメモしながらじっくりと目を凝らしていたので
人一倍時間がかかるわけです(しかも二巡くらい回ったし)。


四時間半ずっと立ちっぱなしだった為に退出する頃には
足腰がかなりガタついてしまったけど、それだけの価値はありました。
だって南北朝時代の錦の御旗が現存していて、しかも目の前に展示されているんですよ? 
コレ観た瞬間、心臓が止まるかと思いました。
関ヶ原の決戦で忠興公が実際に使った具足や有名な歌仙兼定展示されていたし、
島原の乱大坂の陣で掲げられた軍旗が目の前にあるなんて、
歴史ファンにとっては震えが来るような体験です。いや、実際に指先震えましたもの。
軍旗と言えば、細川家には家紋である九曜の旗の他に「有」の一文字を染め抜いた物が
伝わっているのですが(関ヶ原で初めて使われたと記録に残っている)、
この「有」の由来、どの文献を読んでも記述がなかったんですよ。
その数年来の疑問が展示会の説明文で解消されました。
そうか、細川頼有の「有」から頂いているのか。
こう言う発見は展示会ならでは。
細川家に代々伝わる守護天童の存在も初めて見聞きするもので、
創作意欲がガンガンチャージされました。


その足で目白の永青文庫の美術館へ。
こちらは細川護熙さんが理事長を務める永青文庫の総本山とも言える場所で、
やはり細川家の逸品が展示されています。
話は前後しますが、至宝展の中に忠興公子孫の陣羽織が展示されていたのですが、
その襟元へ横に二本線が入っていたんですよ。
具体的な説明はありませんでしたが、「このデザインは二っ引き両を意識したんだろうな」と
想像していました(※丸に二っ引き両は足利家の家紋)。
その仮説を裏付けてくれたのが護立氏。永青文庫に展示されていた、
彼がヨーロッパで作らせた本には必ず二っ引き両の意匠が施されていました。
これは護立氏がご先祖様を参考にしたんじゃないかな。
あるいは、ご先祖様と同じセンスが発揮されたのかも知れない。
そんな風に想像力を最大限に膨らませて細川家の逸品を拝んで参りました。


細川家にまつわる宝物展示を両方経巡って特に印象的だったのは、やはり千利休の形見となった「ゆがみ」の茶杓
マニラへ追放される直前の高山右近から届いた別れの手紙。
どちらも目の前に立ったとき、震えが来ましたね。
人一倍情に厚い忠興公のこと、ふたつの形見の前できっと泣いたんだろうな、と。


色々調べる中で更に確信を強めたことがあります。
細川家は伝統を重んじ、これらを継承することにある種の使命感を持っていたのではないか。
なにしろ武家として独立した初代・藤孝公からして「古今伝授」の継承者。未来の財産とはどう言うものなのか、
永代に渡って語り継いだのだろうと想像しています。そう言う意味でも細川家は本当に興味深いわけで。


美術館巡りの前後には国会図書館で細川家の古文書を読み漁り、所謂歴史解説の書籍には掲載されていない、
忠興公の日常や珍事件も思う存分調べてきました。
これだけ集中して取材をしてもまだまだ全てを解読できたとは言い難い。さすが美と知の宝庫、細川家!
トロイメライの運営同様、じっくりと時間をかけて調べ上げて行きたいと思います。


そのトロイメライ、本編の執筆はそろそろ中盤の山場に入ります。
シーズン2の執筆も残すところあとわずか。
激極のオッサンはシーズン2の最終回を見事に脱稿しました。
僕も負けじと頑張らねば!