なんかシリーズ化しそうな勢いby激極

若干一名の要望に応えて始まりました。
もっと間隔をあけてもよさそうなものなんですけれど、まあその辺は気にしない。

というわけでして、前回語ろうとしていた「戦国時代の馬」(タイトル適当)について。
今回もあまり、というか全く面白くは無いので、斜め読みでおk。


大河ドラマなんかでよく見られる合戦シーンに欠かせない馬ですが、あの時代にはどう考えたってあのような立派な馬は存在していません。
サラブレッドだから云々と言う前に、とにかくあんな大きな馬は日本にはいません。


その当時、日本に存在した在来種の平均的な体高(地面から肩までの高さ。頭から尾では無いので注意しませう)は四尺三寸(約130cm)程度です。
現在のサラブレッドの平均的体高が165cm程度ですから、ここから比較判断すれば、どれほど当時の馬が小さかったのかが分かるかと思います。
ちなみに現在の区分では体高が147cm以下の馬はポニー扱いです。

当時の体高の数え方は四尺(約121cm)を基準に置き、そこからそれより大きいものを一寸(この場合読みは『いっすん』ではなく『いっき』だそうです)、二寸、三寸というように数えていきます。
先ほど述べた平均体高は定めに合わせるならおおよそ三寸(さんき)となります。

余談ですが、徳川家家臣が記したとある史料には、1582年に信長に丈が十寸八分(153cm弱)の馬が献上されたとあります。
その時の信長は日本に並ぶ者の無い勢力を誇っていましたから、そのような人物に献上されたという事は、この馬は当時としては破格の大きさだったと推測できるのではないでしょうか。

さらに横道にそれますが、日本産の馬はその後300年ほど大きさは変わらず、明治政府は軍事目的で国策として馬産に力を入れました。
義和団の乱の頃、日本兵が乗っていた馬を見た欧米列強の兵士たちは「日本人は馬の形をした獣にまたがっている」などと揶揄されていたように、あまりに世界基準からは小さいものでした。
近代日本競馬の原点はその辺りにあるのですが、そこを語ると私の卒論をグダグダ延べかねない展開になってしまうので、やめましょう。

というわけで、そんな小さい馬に乗って、戦場を縦横無尽に駆け回るなどとはいきません。
実際、馬は移動か輸送か退却にしか使われておりませんでした。
ドラマのように轡を並べてきれいに突撃、などという光景は決して見られません。
そもそも、去勢もしなければ蹄鉄も履かせない馬など、人が乗るのも大変です。
去勢しない牡馬(「ぼば」オスの馬)は気性が荒く、現代のような馴致(「じゅんち」簡単に言うと馬を人に慣れさせること)をしなければ危なっかしい乗り物です。
また蹄鉄(「ていてつ」読んで字の通り、ひづめに履かせる鉄でできた馬用の靴みたいなもの)を履かせなければ踏ん張りが利かず、とても数10キロの甲冑を着た武士が乗って颯爽と駆け回るなどとは不可能に近いでしょう。

そんなこんなで、戦国時代の馬は合戦の主役足り得ない存在なのです。
ロマンもへったくれも無いですね。


前回、騎馬軍団などは存在しないと言いましたので、そこもついでに。

武田騎馬軍団などと聞いて、どのような姿を想像するでしょうか?
近代ヨーロッパのような騎兵隊でしょうか、それともモンゴルの騎馬兵士でしょうか。
答えから申し上げればどちらもあり得ません。
というのもです、その当時は馬に乗るのは身分を表す手段でもありました。
馬に乗る事は権利とともに義務でありまして、そういう地位にある人は必ず乗馬せねばならず、逆にそういう身分でない者はいかに財力があろうとも乗馬を許されませんでした。

馬に乗れるような身分の者は、戦場では部隊の長に必然的になるほどの身分です。
そんなわけですので、騎馬武者ばかりを集めたところでどうにもなりません。置いてきぼりにされた足軽の皆さんを率いる人がいなくなるわけですので、これでは戦になりません。
適材適所ってやつですね(間違い)。

蛇足ですが、有名な武田家よりも、上杉家や北条家の方が軍隊での騎馬武者の割合が大きかったようです。だから何だと言われれば返す言葉もありませんが。

また、山内一豊の有名なエピソードで、妻がひそかに蓄えていた金銭で立派な馬を買ってもらい、それを信長に誉められたというものがあります。
先ほどまでの事から考えれば、一豊が馬に乗るのはそういう身分だったからというわけでして、別に信長がどうこう言う話でもないはずです。群を抜いて見栄えのする馬だったなどという記述があったかどうか怪しいものがありますし、カネが無いけど立派な馬を買ってもらったからといって信長の目に留まるというのも良く分かりません。いわゆる分相応ってやつです。
奥さんの内助の功を信長が気に入って一豊が取り立てられるようになった、という解釈もできましょうが、そもそもこのエピソードはまともな史料にはどこにも記述されていませんので、まあ後世の創作なのでしょう。


最後に、戦国時代は関係ないのですが、我々日本人はどこをルーツとするのか。
大陸からやってきた騎馬民族が、原住民を討ち従えてヤマト朝廷のルーツとなった、というような説もちらほら聞こえますが、どうにも納得いきません。
上記の通り、長い年月の間、馬を去勢する文化も技術も持たなかった日本人が、はたして遊牧騎馬民族の子孫足りえるでしょうか?
明治時代になるまで蹄鉄を履かせることをしなかった日本人が。

そこいらから騎馬民族ルーツ説は却下されそうです。
ちなみにそれがし激極は、ポリネシア等の南方系民族と大陸の農耕民族が交じり合った人々が、日本人の原点となったと勝手に思っています。もちろんこれも根拠はありませんが。




つーかさ、このシリーズ(といってもまだ二回目だけど)本当に面白いのかな?