前回の続きby激極

パソコンが復活を遂げました。
道行くカップルに呪詛の言葉を投げかける男、激極です。こんばんは。

前回の結びに「時代考証が云々」と書いてしまった手前、それについて語ることとなってしまいました。

とはいったものの、大体自分で書いた『戦国桃太郎』とかいう小説の面汚しにおいて、
戦国と銘打っておきながら思いっきり時代考証を無視したできにした私が語るべきことでも
ないような気がしまくりですが、その辺りは平にご容赦を。

まあ語ることといっても、大したものではありません。
大体私が「あーだこーだ」と語っても失笑を買うだけですので、
お茶を濁して、ここが変だよ、くらいに留めておきます。

歴史物の中で最も扱われるのはやはり戦国時代でしょうか。
大河ドラマとかでも隔年くらいで取り上げられていますし。
この戦国時代、広く知れ渡っているにもかかわらず、結構誤解も蔓延しています。

「あれはねーよ」、「それはねーよ」と突っ込んでいくと、本の一冊くらいは簡単にかけるくらいの容量になってしまいますので、ちょっとだけよ(by加藤茶)。


教科書レベルで誤解されていることですが、
織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の合戦というのがあります。
蛇足ながら、そもそも「長篠」は城の名前でありまして、実際に戦ったのは設楽が原と伝えられている場所。それも本当にそう呼ばれていたかも怪しいのです。

それはさておき、連合軍側の勝因として語られる、鉄砲の大量かつ効果的な運用、という点であります。
織田軍が用意した数は三千丁などといわれていますが、実際には同盟した他家などそこら中からかき集めて千丁がやっとのとこだったと史料にもあります。
さらに、連合軍側は堅牢な陣地に密集していましたから、鉄砲の三段撃ちなどというのは不可能です。
実際に火縄銃の射撃を見たら分かりますが、あんなものを兵士がくっついた状態で使おうと考える武将がいたら、そいつはアホウの烙印をおされることでしょう。
煙は出るし、火種がむき出しの近くで火薬を取り出せばどんな事故が起きるか分かりません。

三段撃ちといえば、この合戦から30年ほど後に、オランダのなんとかかんとか公が同じような戦術を編み出しておりまして、そういったところから
「信長は極めて画期的な戦術を編み出した天才だ。信長マジパネェ、第六天魔王マジヤベェ」
なんて後世の物好きに評価されていますが、つまりでっち上げです。
誤解を恐れずにいえば、日本人が優秀だと否が応でも認めたい人たちの妄想でしょう。
(わたくし激極は、日本人が優秀でないと言うつもりは毛頭ございませぬ。誤解無きよう)

そもそも、そんな戦術は職業軍人を高いカネを使って、長い時間教育して、ようやく成し得るものです。その当時の日本のように兵農未分離の状態では厳しいでしょう。
それに、この時代の戦は近代戦闘のように、指揮官の号令で規律をもって動く軍隊ではありません。
部隊単位で、それどころか腕に覚えがあればいくらでも一人で突出できたのです。
そういう背景があったから加藤清正らの七本槍の戦功やら可児才蔵の功績やらが存在成し得るのですが、
それについて語ると本題から大きくずれるので今回は割愛します。

本題に戻るのも、めんどっちいからまとめに入りましょう。
本当は合戦の経過とか、合戦の見取り図とかを詳しく話したいですが、それはまたの機会に(あるのかどうなのかは未定としか言えませんのであしからず)。

というわけで、長篠の合戦で織田・徳川連合軍が勝利した理由は大まかに三つ。
1・そもそも武田軍よりも圧倒的に軍勢が多かった。
簡単な理由です。衆寡敵せずってやつです。長い歴史の中では寡兵で大勢を破るということもありますが、それはよほど綿密な計画を練るか、ものすごいラッキーが起きるか、大兵力の側の指揮官がパーかの要員が必要となってきます。というわけで今回はどれにも当てはまらないでしょう。
余談ですが、奇襲によって少が大を破った桶狭間の戦いについてもいろいろと世間一般に考えられている「事実」とはかけ離れた原因があるのですが、その辺りもまた機会があれば。

2・連合軍が徹底した陣地戦を仕掛けた。
守備側が連合軍であるのですから、武田軍が退却さえすれば、たとえ武田が一兵たりとも失わなくても実質的な勝利は連合軍側です。というわけで何も好き好んで武田軍を攻める必要はなく、がっちりと陣地を守っていれば負けは無いのです。先に述べたように兵力差もありますし。

3・武田軍が長篠城を攻めている間に武田軍の退路を断った。
仮に城が落とされても、退路を断ってしまえば袋のネズミも同然。援軍無き篭城に勝ち目は無いのは古今東西普遍の定理です。ってことで武田軍は損害覚悟で連合軍の陣営に攻めるか、損害覚悟で一気に退却するかのどちらかとなります。逃げたほうが傷は浅いかもしれませんが、勝頼は色々と苦しい立場(それを作ったのは父の信玄ですが、ここも今回は割愛します)でして、ヤバイからといって逃げるのも困りものだったという次第なのです。というわけで葛藤はあったでしょうが、突撃を命じたというわけです。

結果はさすがに教科書に記述のあるとおりです。
連合軍側にも被害はありましたが、比較して武田軍は名のある指揮官をバッタバッタと討ち取られてしまったので、その後も立て直すことができなかったというのはよく知られたお話。

ちなみにこの戦い、よく「騎馬軍団(中世)と鉄砲隊(近世)の戦い」などと評されていますが、
この非常に有名な武田騎馬軍団、これも嘘っぱちです。というか騎馬軍団じたい、この時代の日本には存在しません。
ここも話し出すと長くなるので省略します。これは機会があったら次回述べたいです、ホント。


もともとはブログ書くまでは戦国時代の馬について語りたかったはずなのに、
どうしてこうなったんだろう……?


あ、それと「どこかで聞いたようなウンチクうぜーよ」とお思いでしたら文句は聞きます。
そして誤ります、でなくて謝ります。